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行政政策学類

はじめに

学生と大学の間柄について

行政政策学類長 垣見 隆禎

 2021年度入学の皆さん。福島大学行政政策学類は、皆さんを心から歓迎いたします。2020年はじめに感染者が確認されて以来、新型コロナ禍は今現在、収束の目途が立っていません。大学も教育・研究を進めていく上で様々な困難に直面していますが、皆さんも、日常生活から高校生活、さらには受験勉強に至るまで多くの制約や不自由を強いられてきたことと思います。そのような中で不断の努力を積み重ねて、福島大学の門をくぐることになった皆さんにあらためて敬意を表したいと思います。

さて、私にここで求められているのは、この「学修案内」がどのような媒体なのか、なぜ大切なのか、ということを説明することです。この点について、ここでは、大学と皆さんとの間柄はどのようなものであるのか、私たち(教員も含めて)はなぜ学ばなければならないのか、ということと絡めてお話ししてみたいと思います。

 大学、とりわけ国公立大学と学生の関係については、これまで法学(行政法学や教育法学(教育法・学ではなく教育・法学です)、さらには民法学)の世界でいろいろと議論が繰り広げられてきました。
 一番古い議論が「特別権力関係」論といわれるものです。なんだかギョッとするようなことばですね。漢字が6つ、ドン、ドン、ドンと並んでます。しかも「権力」と聞いただけでも思わずのけ反るのに、それが「特別」だ、というわけです。
 さて、「特別権力関係」論とは国公立大学と学生の間は「権力」によって媒介される、というものです。皆さん、お察しのとおり、「権力」を振るうのが大学で振るわれるのは皆さん学生です。一般の市民に対して行政が権力を行使するためには、その都度、法律の根拠が必要である、とされるのに対して、この「特別権力関係」論にあっては、そのような制約がない、さらに権力行使――例えば停学処分とか退学処分あるいは単位の不認定――に不服がある場合でも裁判所に訴えることはできない、とされています。「特別権力関係」論の典型例として挙げられるのが、国家と官吏(公務員)の関係と並んで刑務所の看守と囚人の関係である、といわれると、いよいよ窮屈になってきますね。
 この「特別権力関係」論というものは戦前の天皇主権の国家を前提としたものであり、さすがに「個人の尊厳」を重んじる日本国憲法の下ではふさわしくない、ということで、今日では裁判所もこのことばを用いることはなくなりました。
 それでは、今日、国公立大学と学生の間柄は、法的にはどのように説明されているのでしょうか。
 今日、ほぼ通説となっているのが、「在学契約」関係というものです。つまり、入学試験に合格した皆さんが、所定の期間内に所定の入学手続をして在学契約締結の申込みをすれば、特段の事情のない限り、国立大学は在学契約の締結を承諾する、これにより皆さんと大学の間に契約関係が成立する、というものです。先の「特別権力関係」というものが、いわば垂直の関係であるとすると、こちらは対等な水平の関係といっていいでしょう。
 少しは安心したでしょうか。大学と皆さんとの間柄は独立した法人格同士の関係です。成績評価についても、裁判所は基本的に取り合ってくれませんが、学内には「不服申立て」という制度があります。なぜ、私はSでなくAなの?納得のいかない場合には、それを先生にぶつけることができます。手続等についてはこの「学修案内」で調べて下さい。
また、大学は皆さんにあれこれと指図はしません。授業や演習も一つ一つの科目について皆さん自身が所定の期間内に履修登録という手続をとらなければ受けることができません。そういわれても、履修登録ってどうやればいいの?どの科目をどのセメスターでとればいいの?こうしたことが逐一説明されているのがこの「学修案内」です。この「学修案内」を活用して充実した大学生活を送って下さい。

これで、「学修案内」という媒体に寄せる「学類長のことば」としては十分かもしれません。が、せっかく大学と学生の(法的)関係というはなしをしましたので、これをもう少し深めてみましょう。大学と皆さんの関係が「在学契約」という「契約」だとして、この「契約」の中味はなんでしょうか。
一番簡単な説明は、皆さんが入学金や授業料を支払う対価として、授業その他の教育役務を「購入」するというものです。逆に、大学は皆さんから授業料などをいただくことによって「教育サービス」という対価を提供する義務を負う、というものです。コロナ禍で、大学の授業がオンラインになったり、図書館が使えなくなったりで「サービス」が低下したのだから授業料安くなりませんか、という声を最近よく耳にします。そうした声が出てくるのも――学費は高額になってしまったので無理からぬ点はもちろんあります――それは今申し上げたような考え方が背景にあるからなのかもしれません。なお、かつて、大学の授業料は教育に対する「対価」ではなく、「在学意思確認のための実質的手数料」(兼子仁『教育法〔新版〕』有斐閣1978年241頁)であるとする説が有力に唱えられるほどに低額であったことも付け加えておきます。
高度な専門知識や教養を「買う」という言い方に抵抗のある人もいるでしょう。あるいはこんな考え方もあるかもしれません。例えば、授業料の中には授業その他の提供だけでなく、図書館や情報処理センターなど大学の施設を利用する権利が含まれている、とか、大学生という地位・身分を取得するというのが「在学契約」の核心部分であるとか・・・ 
これらに共通するのは、「在学契約」関係によって皆さんが得るのが、皆さんの「私的利益」である、という点です。しかし、このように考えた場合には、皆さんはより深刻な問題に直面することになります。というのは、大学教育を受けるということが専らこれを受ける人の利益である、ということになると、その費用は全額自分で負担すべきである、というはなし(いわゆる「受益者負担」論)になるからです。そして皆さんもご存じかもしれませんが、国立大学の運営は皆さんから頂戴する授業料のみで成り立っているわけではありません。国の「運営交付金」というお金が投入されているのですね。「受益者負担」という考え方が徹底されると今でさえ高額になっている授業料はさらに高くなることでしょう(そしてこの考え方は、今日本社会を覆いつくす勢いで広まっているように思われます)。
「運営交付金」という公費が(私立大学にも私学助成という形で公金が投ぜられています)投入されているということは、――大学以外の教育も含めて――教育とは、それを受ける者の自己利益以外の何らかの目的を(も)追求している、ということを示していますね。そうしたことも反映して「在学契約」というものは「教育法の原理及び理念による規律を受けることが当然に予定されているという意味において、取引法原理に適合しない側面を有している」(東京地方裁判所平成15年2月23日判決)とか、「単に人的・物的教育施設の利用とその対価の支払に関する法律関係にとどまらず、教育という全人格的な営為を対象とするだけに、取引法の原理には馴染まない要素をも包摂している」(東京地方裁判所平成15年10月23日判決)などと評されたりもしています。
しかし、これらも決定打とはいえませんね。「取引法原理」にとどまらない、といっているだけで、ズバリ、こうこうこういうものだ、とまではいっていません。どうやら法律の専門家の間でも、「契約」であるという点では一致していても、その内容までは明確になっている訳ではないようです。ただ、「在学契約」の中味を確定していく上で鍵になりそうなヒントは示されているように思われます。それは「教育法の原理及び理念」とか「教育という全人格的営為」という文言です。
「教育」とは何か、という問題も、これはこれで大変な難問です。ここで即答はできません。が、およそ「教育」という営みが何のために行われるのか、ということを明快に示したものがありますので、最後にそれを掲げておきます。
「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。」(2006年に改「正」される前の教育基本法前文)。

現在、世界と日本、そしてその各地域では解明・解決が求められている社会的課題が多数あります。上で皆さんと考えてきた問題もその一例に過ぎません。こうした諸課題について皆さんとともに探求――大学は教育のみならず「研究」機関でもあり、「真理」を探究するという立場において学生と教員は対等です――していくことを学類教員一同楽しみにしています。